ノスタルジアなんてありゃしない
1982年6月2日、『サムライ』は屋根裏で産声をあげた。
オレ自身はそれ以前に別のバンドでステージ(とは言っても某所の盆踊り会場だが)
を経験していたが、『サムライ』としては初めての人前での演奏だった。内容は散々
であった。あれほどの赤っ恥をかいたのは、後にも先にも皆無である。自意識過剰だっ
たオレの鼻はポッキリ折れた。同世代である対バンのアレルギーに素晴らしい演奏を
みせつけられたこともショックだった。
打ち上げでは独り荒れた。山手線から芋虫のような目蒲線に乗り換え、ぼろアパート
に帰りすぐさまベースの練習をした。雨が降っていた、ような気がする。翌日のバイ
トに出掛ける時間まで、部屋の裸電球は消える事はなかった。オレの目標は決まった。
「いつの日か屋根裏のレギュラーになってやる」
まずはそれまでの修行の場を、デモテープ持参で探し始めた。スペースは狭いが、今
の自分らには丁度いい雰囲気のライブハウスをみつけた。ハコの名前は『RED HOUSE』
。今思い返せば、1st EP収録曲『LIVE HOUSE ROCKER』のモデルはこの店だったと思
える。場所がロックミュージシャンの多い高円寺ということもあり集客もいいかんじ
だった。
『サムライ』は動き始めた。
そんなさなか、THE MODSのライブで知り合ったダチが『鹿鳴館』でバイトをはじめた
と知らせてきた。出演バンドを募集している、という。そのダチとは現プライベーツ
の延原である。もう少し広いホームグランドを探していたオレは渡りに舟とばかりに
誘いに乗った。が、鹿鳴館は、かなり広かった。映画館のような備え付けの椅子があ
る作りのため、ばらばらに座られると30人ぐらいではスカスカにかんじるのだ。集客
には悩まされた。赤字が続いた。
だが、鏡張りの立派な楽屋といい、その隣にある出演者専用のトイレといい、出番寸
前までリハーサルが可能なスタジオまで完備されている境遇に、オレはもういっぱし
のプロミュージシャン気取りだった。
余談だが、知り合って間もない頃、延原には一度、危うく火事になるところを助けて
もらったことがある。ゴミ捨て場から拾って来た電気コンロでお湯を湧かしたまま寝
入ってしまったオレを、深夜に遊びに来た延原のノックの音が起こしてくれたのだ。
そのとき、片手鍋の取っ手はすっかり溶けて部屋中真っ白な煙が充満していた。あの
とき火事になっていたら、生きていたとしても損害賠償を背負い、バンドどころでは
なかったはずだから、私生活の面でも延原には感謝せねばなるまい。
鹿鳴館でのマンスリー・ライブは続いた。当初は延原のバンド(当時はセクト)やそ
の関連バンドとの共演が多かったが、次第にバイト先で知り合ったパンクバンド(奇
形児・ガスタンク・ゾルゲ・ルーズetc)との共演が増え始めてきた。原宿のパンク
ショップでバイトをしていたということもあり、バンドマン連中に『サムライ』の名
前は急速に浸透していった。客も増えて来た。
機は熟した。『サムライ』は屋根裏のオーディションを受け、目標を達した。
屋根裏は、ライブ終了時には吸い殻や紙コップがフロアに散らばる薄汚いハコだった。
当時のライブハウスは文字どおり『ハコ』で、アンプやドラムなどの機材は出演者に
よる持ち込みがあたりまえだったのだが、奇しくも当時の屋根裏は4Fだったため、リ
ハーサル以前に、狭い階段での機材あげで苦労させられた。それだけならまだいい。
物事には《初めと終わり》があるのだ。つまり、疲労こんばいしたライブ後には、機
材おろしが待っているのである。これには泣かされた。特に冷蔵庫のようなオレのベー
スアンプに。
エレベーターのないビルの4Fにライブハウスがあるというだけでも常識はずれだが、
2Fと3Fはキャバレーロンドンという、「ロックは教育上よろしくない!!」とPTAが目
くじらを立てそうな環境だった。ロックに不良性のあったあの頃、まさに屋根裏はあ
の時代を象徴していた。
スコブル懐かしい。
しかしながら、『サムライ』は『屋根裏で生まれ、屋根裏で死んだ』のである。これ
は悲しむべきことではないとオレは思う。むしろ潔い。己の信念の元に自決する侍そ
のものだ。
『オレの夢の中で逢えるならそこで待とう、それがオレの出口』とラスト作品の『ポ
イント0』でも歌っているように、あのときはあそこで終わるべきだったのである。
あの作品が深夜の屋根裏でレコーディングされたことや、『今日の日はサヨウナラ』
が収録されているのも、その予兆だったとも思える。
これはちょっとしたシャレだが、『サムライ』は甲本ヒロトが歌っていたように『ド
ブネズミみたいに美しくなりたい』という生きざまを実践・実行したバンドじゃない
のか??天井裏【屋根裏】を駆け回って終わるなんて。
そういえば、ブルーハーツの面々と初めて逢ったのも屋根裏だった。リハーサルの最
中に突然なだれ込んできて、翌々月の対バンをニコニコ顔で申し出てきたのだ。あれ
には笑わせられた。招かれたライブではその演奏を聞いて顔面蒼白になった。予想通
り、ブルーハーツは超売れっ子となり一世を風靡した。ブルーハーツからハイロウズ
にバンドは移行したが、相も変わらずヒロトもマーシーも頑張っているようで嬉しい
限りだ。
最後に。
疎遠になって久しいが、メンバー2人もオレ同様、自分の力で見い出した活路を邁進
していることと思う。世間の風潮に流されることなく、オリジナルのスタイルを貫き
通した『サムライ』というバンドに在籍したことを誇りとしてこれからも生きていっ
て貰いたい。そう願う。
オレは今やっとスタートラインだ。様々な苦難があり20年ほど遠回りはしたが、無駄
だった時間は1秒足りとてない。ここから『サムライ』というオレが始まる。
ココが紛れもない『ポイント0』なのだから───
2004年 7月23日 S・リューシン
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